2018年6月9日

Additional note

 かの親族だった男は哀しいことに、同世代が中高校生の我が子の教育に苦心しているのを尻目に夫婦揃って二次元のぬるい高校生疑似ハーレムアニメに耽溺し過ぎたせいか、それとも老いの始まった歳のせいか、これを読んでも理解する知性がすっかり衰えてしまったようで、今も相変わらず、その場で親切ぶったり殊勝な顔を見せたりして上っ面さえ取り繕えば、自らのこれまでの蛮行を矮小化し、有耶無耶のうちに無かったことに出来ると思っているようです。

 いままで何度同じことを繰り返してきたことか。彼の父親もそうでした。

 彼のその場の態度一つで無かったことに出来るのなら、彼の周囲は誰も苦労しません。しかしこれまでの数十年の所業を見れば、いずれまた同じ蛮行が、彼によって繰り返されるのは目に見えています。

 自身の数々の行為によって、彼が生涯に渡って背負わなければならないほど重くなってしまったその咎も、彼にとってはいつものように、押しつけがましいぞんざいな手土産と共に、過去の行いを忘れたふりをして顔を出しさえすれば「また簡単にチャラにできる」と思う程度の、「いつもの気軽な蛮行」であったことが良く分かります。一種のサイコパスとすら言えるでしょう。

 自分が苦い思いをしそうなことからは逃げ続け、世間体を気にしなくて良い身内は蛮行を以て容赦なく叩きつぶし、ひたすら自分が全肯定され甘く甘く生きられる環境整備に勤しむことだけが「ポジティブに幸せに生きる」ことだと壮大な勘違いをしたまま初老を迎えた人間の姿は、なんと痛々しく醜悪なことかと思います。そう見られていることに気付いていないのは、今のところ彼ら自身だけです。

 しかし、事態を「後戻りできない、消せないこと」にまで悪化させ、彼の存在そのものが「決して愛され得ない存在」と化してしまったのは、ひとえに、彼自身が苦さを避けて選択し人に向けて実行した行為が、実績として長年にわたって積み重ねられたその厳然たる結果でしかありません。

 子を育て、あるいは親を看取るという、齢を重ねる中でごく当たり前に訪れる「人間としての責務」を果たしている人なら誰でも、自らへの甘さによって失うものの大きさを「常識」として理解していますが、二度と戻らぬこれまでの時間を傲慢にも徒に過ごした彼は、もはや生涯にわたって、どちらの責務を担うことも叶わぬ幻に終わりました。故に老いるまで一生、この常識を学ぶ機会はないでしょう。

 すべては手遅れです。そしてそれこそ、彼自身の生き方の甘さがもたらしたツケです。人生とは彼が今思い込んでいるほど軽々しいものではありません。