2018年6月11日

Additional note 2 : Psychopath

 前々から薄々感じつつも、先日まで安易に言葉にするのは避けてきたのですが。

 先年の一連の、かつて親族であった男の蛮行と、それがもたらした彼が生涯背負わなければならない程の重大な結果ですら、彼は「よくありがちな平凡な失敗談」と軽く流して無かったかのようにできると思い込んでいることを知らされるに及び、結局、彼の気質は彼の父親譲りのサイコパスだとはっきり理解せざるを得なくなりました。つまり彼は、

 罪悪感を覚えることができない。

 それを踏まえると、幼少のみぎりから初老に至る今日まで、彼はその悪い行いを指摘され叱責される度に、誠意ある謝罪は一度も示さず、代わりに激怒し顔を真っ赤にして怒鳴り散らして暴れるか、ただひたすら大泣きし、そしてまるでちょっとした子どものいたずらだったかのように、うやむやのうちに簡単に無かったことにできると思い込める——「謝らない」「激怒」「大泣き」「無かった」のいつもの四点セット——を繰り返すのも納得できます。

 なぜなら、彼の脳は罪悪感を覚えない、即ち自分の行いが人に与えた影響の大きさを把握する能力がないのですから、彼は「なぜ怒られるのか分からない」。分からないから彼にとっては、

 自分への叱責、苦言、諫言は「理不尽な誹謗中傷」で
 怒られる自分は「かわいそうな扱いを受けている」
 自分の行いに憤る者に対しては「あの程度のことで憤るとは異常」

としか解釈できないのでしょう。これでは常人には簡単な「反省」の境地に立つのは望むべくもなく、だからまた同じ醜態の繰り返しを演じることになる訳ですし、どうりで苦言諫言を嫌がり自分が全肯定される人間関係に拘泥する訳です。

 そして肚の内の本音を見せず彼に決して直言しない相手との結婚で実現した、自分全肯定の甘い環境が、何をしても罪悪感を覚える必要のない人生となり、彼のサイコパス気質の深刻化につながったのかも知れません。

 四点セットのうちの「大泣き」を見せられると「彼は罪悪感を覚え反省している」と人は普通受け止めますし、私や私の家族もよくそう思い込まされ、しかしまた彼に同じことを繰り返されては困惑し、苦しめられてきました。実は彼が大泣きするのは罪悪感からではなく、なぜ責められるような事態に陥ったのか原因を把握する力がないために生じた、彼の単なるパニックに過ぎなかったのです。


2018年6月9日

Additional note

 かの親族だった男は哀しいことに、同世代が中高校生の我が子の教育に苦心しているのを尻目に夫婦揃って二次元のぬるい高校生疑似ハーレムアニメに耽溺し過ぎたせいか、それとも老いの始まった歳のせいか、これを読んでも理解する知性がすっかり衰えてしまったようで、今も相変わらず、その場で親切ぶったり殊勝な顔を見せたりして上っ面さえ取り繕えば、自らのこれまでの蛮行を矮小化し、有耶無耶のうちに無かったことに出来ると思っているようです。

 いままで何度同じことを繰り返してきたことか。彼の父親もそうでした。

 彼のその場の態度一つで無かったことに出来るのなら、彼の周囲は誰も苦労しません。しかしこれまでの数十年の所業を見れば、いずれまた同じ蛮行が、彼によって繰り返されるのは目に見えています。

 自身の数々の行為によって、彼が生涯に渡って背負わなければならないほど重くなってしまったその咎も、彼にとってはいつものように、押しつけがましいぞんざいな手土産と共に、過去の行いを忘れたふりをして顔を出しさえすれば「また簡単にチャラにできる」と思う程度の、「いつもの気軽な蛮行」であったことが良く分かります。一種のサイコパスとすら言えるでしょう。

 自分が苦い思いをしそうなことからは逃げ続け、世間体を気にしなくて良い身内は蛮行を以て容赦なく叩きつぶし、ひたすら自分が全肯定され甘く甘く生きられる環境整備に勤しむことだけが「ポジティブに幸せに生きる」ことだと壮大な勘違いをしたまま初老を迎えた人間の姿は、なんと痛々しく醜悪なことかと思います。そう見られていることに気付いていないのは、今のところ彼ら自身だけです。

 しかし、事態を「後戻りできない、消せないこと」にまで悪化させ、彼の存在そのものが「決して愛され得ない存在」と化してしまったのは、ひとえに、彼自身が苦さを避けて選択し人に向けて実行した行為が、実績として長年にわたって積み重ねられたその厳然たる結果でしかありません。

 子を育て、あるいは親を看取るという、齢を重ねる中でごく当たり前に訪れる「人間としての責務」を果たしている人なら誰でも、自らへの甘さによって失うものの大きさを「常識」として理解していますが、二度と戻らぬこれまでの時間を傲慢にも徒に過ごした彼は、もはや生涯にわたって、どちらの責務を担うことも叶わぬ幻に終わりました。故に老いるまで一生、この常識を学ぶ機会はないでしょう。

 すべては手遅れです。そしてそれこそ、彼自身の生き方の甘さがもたらしたツケです。人生とは彼が今思い込んでいるほど軽々しいものではありません。


2018年5月10日

He should have chosen the options prepared for him.

 活動終了から1年のこの間、わざわざ自ら進んで此処を探し出し見て呉れたことで、図らずも本人たちにメッセージを伝えることが叶ったこともあり、更新は終了します。

 生きている中で遭遇する離別の哀しみや犯した自らの過ちの苦しみを心の内に積み重ね、抱えながら、己が死ぬまでそれらと向き合い続けることが全ての人の宿命。それが「悔いる」ということです。

 「不快で居たたまれないから」と、現実に起きたそれらの出来事から目を背けて初めから無かったことにし、精神の安寧のみを求めどんな手段を執っても自らをひたすら憂いの無い純白の状態に置こうとするのは、ただ未熟な子供の考えること。そんなことは所詮不可能であることを悟っているのが、大人だといえます。

 私の親族であったその彼が、16年前、「肚の中を隠す」気質がとりわけ強いことで有名な地域の連れ合いと一緒になったのは、彼の父親の二度目の結婚の時と同様でした。

 その地域で生まれ育った人々は、相手が肚の奥底で何を考えているのかを常に探りながら人と接することに子供の頃から慣れています。しかしそういうことに元来不慣れな余所者の父親と同様に、彼もまた、連れ合いや周囲の、表向きの甘い言動に見事なまでに踊らされ誘導され、自分が何を行っているのか冷静に考えることのないまま、結局人として二度と取り返しの付かない過ちを犯す結果となりました。

 彼ら父子が共々幾つになっても乗せられやすい子供のような純粋無垢さを保っている証左でもありますが、精神はともかく実年齢は子供ではないのですから、許されざる行いはどんな言い訳をしても許されません。

 約十年前から、誰もが簡単に予想できる最悪の結末に向かって彼が突き進んでいることは明白でした。この間私自身は、生涯でもっとも精神的に厳しかったといえる状況にあり、故に感情を抑えきれないこともありましたが、それでも私は、彼の親族として、昨年の最終局面までことある毎に、彼が救われ、面目も保てるであろう、ぎりぎりの選択肢を彼に提示してきました。しかし結局彼は、目先の保身のための蛮行とともに、人として悲しむべき結末を自ら選んでいってしまいました。

 これから先、人がどんなに表向き彼にかまってくれようと、事情を知っている人には「取り返しのつかない行いに及んだ人間だ」と内心で思われながら、の生涯を彼は送ることになります。哀しいことですが、無かったことにはもうできません。

 彼が、直言するものをひたすら周囲から排除し続け、肚の中でどう思われているかなぞ少しも疑問に持たずに、表向き甘く接してくれる人々で身の回りを固めてしまった以上、彼もまた、父親と同様の末路を辿ってゆくのでしょうか。

 いよいよ初老の域を目前にした彼への最期の直言として、ここに記したことが、既に人生折り返しを迎えている彼の、自身を省みる要素の一つにでもなれば良いのだが、と思っています。

2017年4月24日

人生は怖い

 地元の古本市で100円で買った小学館『少年少女世界の名作』第34巻(1975年刊)から、今はなき大阪のパルナス製菓キャラクター「パルちゃん」のモデルで知られるソ連時代の有名な児童文学「ネズナイカ」のお話を初めて読んでみました。同書掲載の作品はシリーズ3部作の最初に出た「ネズナイカと彼の友人達の冒険」のようです。
 「花の町」に住む主人公のこびと、ネズナイカ(「無知君」)はこれまで、無邪気そうな「パルちゃん」のイメージしかありませんでした。しかし実は無知ゆえに自分が無知である自覚すらない、ほら吹き常習犯の困った男の子だったとは……同書の解説コーナーではネズナイカについてこう説明しています。

「なんにも知らないのだけれど、科学のことでも、詩や絵のことでも、技術のことでも、自然現象のことでも、なにもかもよくわかっているような顔をします。そして、いたるところで、無知や、無知からくるずうずうしさを、みんなの前にさらけだし、もう強引におしとおそうとして、どうにもならぬはめにたちます」

 そんなネズナイカは転がり込んだ「緑の町」の女の子たちに構ってもらいたくて、大ぼらの英雄譚を語ってきたのですが、実は無知無能な男だとばれると、彼はいたたまれなくなって原っぱにかくれます。でも頭が弱いのでまた誰かに構ってもらいたいとちょろちょろと人前に現れ、そして嘲笑されたりなじられたりします。
 でも本人はその行いを非難されても、

「ああ、なんて、ぼくはかわいそうなんだろう……みんなは、ぼくをいじめている。だれも、ぼくをかわいそうに思ってくれないんだなあ」

 と、無知をごまかすために人をだましてきた自分を棚に上げ、自己憐憫に耽り自分を正当化するのですから、ずいぶんたちがよろしくない。でも最後には「ほらはよくないと、忠告してあげるものよ」という友達が現れ、これまでの自らの振る舞いに気付いたネズナイカは救われます。

 そう、きちんと叱咤し諫めてくれる身近な存在は、いつの時代も人には必要不可欠ですね。

 実は身近な親族で勉強も読書も嫌いなままオッサンになったリアルネズナイカな四十男がいます。しかもネズナイカより不幸なことに、忠告を自分への攻撃と反射的に受け止めてしまう反抗期の子どもみたいな人物です。
 彼はこの四半世紀、自身の妻も含め自分をひたすら全肯定し甘やかしてくれる人間だけで周囲を固めることに全てのエネルギーを費やしてきました。自らの機嫌を損ねる存在とあらば実の親ともいえども縁を切り、子どもすら作らないと宣言したほどです。
 そんな彼が、自己愛と自己正当化に目が眩んだまま、さながら思春期男子中学生のように逆ギレして大勢を巻き込んだ騒ぎを繰り広げたのは最近のこと。いろんな早合点や勘違いに彼自身が気付いた時にはすでに取り返しの付かない段階までやらかしていて、哀れにも自滅しました。

 彼の話によれば、周囲はただ彼の言葉に機械のように頷くだけか、無責任に煽りたてる類の人々しかいなくなり、真に諫言忠告してもらえる人はすっかり消え失せたようで、彼の生涯に残るこの大失策もさも有りなん。子どもの行いなら「可愛い」とか「これから改めよう」ですむかもしれませんが、自らを律し学ぶことを忘れたネズナイカのような大人の行いは「見苦しい」だけでなく、もう後戻りもできないし取り返しもつきません。
 私の亡くなった母の口癖だった「お前は苦労が足りない」の「苦労」とはこれだったのだなと今にして思います。仕事をして稼ぐのは当たり前、それだけで苦労しているつもりになるのは単なる傲りだったのだと、哀れな中年男と化した彼の姿を思い返すたびに強く感じます。

 つくづく人生とは、油断ならぬ怖いものです。

「これからは、正直で、勇ましく、かしこい子になるようにしましょうね。そして、いつもいいことをしていれば、自分をよく見せようなんて思ったり、ほらをふかなくてもすむのよ。そうでしょう?」